ニッポンの「雇用」と「採用」のあるべき姿とは?[2/4ページ]
~日本企業の構造から雇用問題と新卒採用について考える
海老原 嗣生さん
「全員エリート」はもう無理な時代になっている
--日本企業も、本当の意味で社員をエリートとノンエリートに分けなくてはいけない時期に来ているわけですね。
問題は、エリートとノンエリートに分けた場合の対応です。エリートに関しては、新卒一括採用を続けていくことに変わりはありません。これは世界中どこでもそうです。フランスならカードル、アメリカならリーダーシップ・プログラムといって、欧米のどの国でも新卒の厳選採用を行っています。少数の限られた人材をエリートとして育て、将来の幹部へと就けていくのです。
一方のノンエリートに関しては、「仕事の専門性を高めていく」という考え方です。例えば営業職なら、実力があれば他の業界に行っても扱う商品やサービスが異なるだけで十分通用するでしょう。何より、現場での実務は流動性が高いし、企業内での特殊な熟練もあまり必要ありません。自分の実力で食べていくことができます。あるいは、努力すれば数パーセントの人材は幹部へと登用されることもあるので、それを目指してがんばろう、というモチベーションを持たせたマネジメントの仕方ができます。
日本でも、例えば、金融機関では多くの社員が支店配属となり、実質的に現場職務を行っています。習熟度が上がらない社員は、法人営業に進めず、30代半ばでも、住宅ローンなどの個人向け営業を担当しているわけです。彼らはそのノウハウを持って、生命保険や自動車販売会社へと転職することができるでしょう。金融機関以外でも同様です。例えばメーカーなどでも、本社採用のエリートではなく、販売会社で採用された個人向けの営業スタッフ。彼らは、そのノウハウをもとに、やはり生保や投信の販売などにも転職できるはずです。そう、現場での実務職というのは、出世はしていないけれど、意外にも、汎用性がかなり高いのです。こういう人たちは、中途採用で採ってもいいし、会社から出ていく可能性も高い。管理職候補として昇給・昇進をする、という仕組みとどうも折り合いが悪い。彼らに対してまで、総合職採用という名で新卒採用を行うことは、そろそろ無理な時代になってきたのではないでしょうか。
---かつては日本企業にも、ノンエリートがエリートを支える構造がありました。
かつては超大手企業が、高卒のホワイトカラー社員を採用していました。彼らには、グラスシーリング(ガラスの天井)がありました。係長もしくは課長補佐という立場がゴールであり、こうした人の割合が多かったため、社内もポスト不足にならなかった。一方では、高卒入社者の中からも抜擢されて、事業部長や役員になる人材が出てくることもあり、それが社員のさらなるモチベーションになっていました。そう、欧米のノンエリートと同じような形で処遇する仕組みができていたのです。
ところがオイルショック後、大学への進学率が高まるに従い、この構造が変わってきました。多くの超大手企業は高卒ホワイトカラー採用をやめ、大卒総合職という名の幹部候補一本にしていきます。その結果、エリートが増えすぎてポスト不足となり、以前のような処遇ができなくなったのです。
とはいえ、雇用の仕組みは徐々に変わっていくはずです。とりわけ、定年が65歳に延びたことで、この「全員管理職」システムは崩れるでしょう。管理職として実務を離れた熟年者を65歳まで雇用することは厳しいが、熟練社員として現場で実務をこなしてくれるのならば、年齢に関係なく働くことができる。65歳まで働く社会となれば、「錆びない人=現場・実務者」の割合をもっともっと上げねばなりません。それが、日本型「全員幹部」制度を壊すのではないでしょうか。
社員自らが途中で選択できる道を用意する
--- エリートとノンエリートが分かれるという構造を、働く人たちが理解し、受け入れることはできるのでしょうか。
この仕組みには、善し悪しがあります。現在の日本型雇用は、基本的に入口でセグメントしてエリートとノンエリートを分けるようにはなっていません。少なくとも、日本の大手企業では、アメリカほどの学歴差別はありません。採用人数の多い業界ではかなり間口を広げて、人材を募っています。ある程度の大学を出た人に対して、人物本位の選考を行っているのです。このような間口を広げた採用方法は、今後も変わらないと思います。
問題は、入社してからです。成果を上げ、企業に貢献している人材は、30代後半くらいにはリーダーとなります。その際は、実力により出世していくことも十分可能です。努力して実績を上げていれば、ある程度の地位まで登っていくことができる。だから、入社した全員が、横一線で頑張り続ける。これが日本型「全員エリート」の素晴らしいところであり、こういう良さは残っていくでしょう。
しかし、それも30代後半になれば、「将来の経営層」か「そうでない人」か、次第に結論も見えてくる。今は無理して多くを昇進昇格させていますが、それをやめ、一般社員のまま実務を磨き、定年を迎えるという選択肢ができるでしょう。当然、幹部候補と違う道に進むのだから、義務や負荷も軽減されてしかるべきです。例えば、「勤務地は好きなところを選べる」「男性でも、育休を取れる」といった選択肢を提示すれば、この道も悪くはないはずです。
---入り口の段階は同じだが、雇用していく中で処遇の仕方を変えていく。しかも、それを自分で選択することができる、そういう仕組みですね。
最終的には、そうなっていくでしょう。事実、賃金構造基本統計で見ても、課長になれる割合はここ15年で20%も下がり6割を切っています。今後、この割合が逆転して管理職になれない人がマジョリティとなるのは時間の問題です。だから今、一生涯を一般社員で過ごす人のためのキャリアプランを用意しておくことが今求められるでしょう。
エリート・ノンエリートを入り口の段階で分けるのではなく、最初は同じようにスタートして、10年から15年の猶予期間を置いた後、幹部になれるかどうかの評価が下され、本人も納得する。その後はノンエリートとして仕事をしていく、という仕組みに落ち着いていくことでしょう。
---エリートとノンエリートに分けることで、新卒採用のあり方も変わるのでしょうか。
やはり、大学のレベルだけでは、学生を判断できません。例えば、大学でマーティングを学んできたとしても、それが実社会でそのまま通用することはありません。逆に、マーケティングを専門に学んでいなくても、実社会で経験を積んでいく中で「カン」が磨かれ、才能が開花していく人は数多くいます。そう考えると、入口の段階で分けてしまう欧米型の仕組みは問題があるでしょう。やはり、いろいろと仕事をさせていく中で、成果を出すことができた人に仕事を与えるというやり方が良いと思います。
何より、日本企業はそのようにして人を育て、抜てきしてきました。だからこそ、誰もが創意工夫してきたのです。数多くの社員が切磋琢磨しながら、お互いに生き残りを図っていくからこそ、職場に活力が生まれます。そして、そこからクリエイティビティも出てくるわけです。この点では、一部のエリートに頼った中央集権型のアメリカ企業よりも、日本企業は優れていると思います。ただ、その「夢」と「切磋琢磨」を定年まで引っ張るのは、もう無理なんですね。